樹木葬・永代供養・臨済宗の仏事は宗清寺

新編武蔵風土記稿

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「新編武蔵風土記稿」

「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代に徳川幕府が実地踏査により編纂した「大日本地誌体系」の一環として、20年の歳月を費やし、文政11年(1828)に完成させた武蔵一国の大地誌です。
全265巻からなり、江戸府外の郡村々について、自然・農地・産品・神社・寺院・名所・旧跡・人物・習俗などを詳細に調査・記述していて、当時の武蔵国各村を知る貴重な資料として知られています。
維新後の明治17(1884)年、政府内務省地理局が全8冊に編纂し直し、洋装活字本として刊行されました。(現在、雄山閣出版から全13巻セットで刊行されています。)

「新編武蔵風土記稿」における宗清寺

新編武蔵風土記稿 臨済宗妙心寺派 宗清寺
宗清寺について「新編武蔵風土記稿」での記述は、巻237の那珂郡(那賀郡)の3「白石村」の項に現れます。関係する箇所を以下に抜粋しました。(漢字・仮名は現代使いに改めています。)

宗清寺  同宗(*1)広木村大興寺末、金井山(*2)と号す。本尊十一面観音(*3)は、応安元年戊申正月二十日安置と仏像に彫りてあり。開山は可渓宗印禅師明応元年七月二十日寂す(*4)。開基は白石播磨守宗清なりと云う。此人は猪俣弾正少弼定平の二男にして天正十一年四月五日卒すとあれば、これ中興の開基なるべし。法名は天庵宗清居士と号す。墓所に五輪塔あり。
鐘楼 宝暦五年鋳造の鐘を掛く。
観音堂(*5) 宗清寺持ち。
古城跡(*6) 村の東にあり。凡そ八反許の地にて、土居の跡など少々残る。是白石播磨守の居住の地なりと云う。今は林となりて百姓持ち。
新編武蔵風土記稿
▲「新編武蔵風土記稿」の当山関係記載箇所 白石城跡、観音堂跡
▲白石城跡、観音堂跡を当山より臨む

<註釈>
*1:禅宗を指している。
*2:山号は 現在は「見井山(けんせいざん)」。明治政府の苗字令に従い、当時の住持(鳳岳祖瑞和尚)が「金井山」の山号より「金井」の苗字を採り、山号を改めたものと思われる。
*3:御本尊は現在は「聖観世音菩薩」。明治6年4月、雷火によって寺は堂宇を焼失し、そのとき御本尊「十一面観音」も焼失した。その後、本堂が再建された際に現本尊が定められた。
*4:可渓宗印禅師は、広木大興寺第四世住持で当山の中興開山である。示寂年に諸伝あるが、大興寺での記録を重んじ文亀元(1501)年示寂とみる。
*5:観音堂は白石上郭から秋山十二天社への山道脇にあった。現本尊はこの観音堂にあった観音様と伝えられている。観音堂には堂守が居たり、隠居住職が住んだものと思われるが、現在はその跡地と何基かの墓石を見るのみ。
*6:古城跡 は?現在の児玉郡美里町大字白石1840番地で、白石播磨守宗清公の居城・白石城跡地。周辺から30m程の高さの独立丘陵上にある。土砂の採取で大きく破壊されてから急遽発掘調査が行われた。詳細な縄張りを掴むまでには至らなかったが、空堀を配した本郭や二の郭などが確認されている。出土品などから15世紀後半から16世紀前半の遺構と推定されている。

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