開山・開基
当山は永正年間(1504〜1521年)頃、美里町広木の臨済宗大興寺第4世住持の可渓宗印(かけいそういん)和尚 (文亀元年/1501年示寂)により中興開山されました。
当時の山号は金井山とされ、御本尊は十一面観音、応安元年(1368年)安置と刻まれていたそうです。応安年間から永正年間は残念ながら記録がありません。開基はこの地の豪族・白石播磨守宗清公(天正11年/1583年入寂)です。中興開山以来およそ五百年、十一面観音安置よりおよそ六百五十年の歴史があります。
白石播磨守宗清公
『新編武蔵風土記稿』に
「開基は白石播磨守宗清なりと云う この人は猪俣弾正少弼定平の二男にして 天正11年4月5日卒すとあれば これ中興の開基なるべし 法名天庵宗清居士と号す 墓所に五輪塔あり」
と記載されています。朝廷から任命された播磨守ではなかったようですが、地域で武功をたてた人、人望厚い人として「播磨守」で通っていたと推察されます。宗清公の居城の白石城は、宗清寺の北東の小高い山に遺構があったと言われています。残念ながら半分くらい削られてしまいました。天正7年広木大仏の合戦など、厳しい戦乱の時代を生きた宗清公、墓所の五輪塔は子々孫々大切に守られています。
近世〜近代の再興
江戸時代に、快川国師で名高い甲斐(現・山梨県)の恵林寺(えりんじ)から籃月祖栄和尚(延宝6年/1678年示寂)がこの地域を布教し、禅風を鼓舞しました。その後、融峯祖門和尚(享保16年/1731年示寂)が現在の臨済宗妙心寺派の禅風を相承し、当山を再興しました。
明治に入って6年(1874年)4月、雷火に襲われて堂宇が焼失、このとき御本尊の十一面観音像も焼失しました。当時の鳳岳和尚と弟子の荒川玄機和尚の努力によって、その後明治20年代(1888〜1897年)までに本堂は再建されました。
御本尊には、新たに「聖観音菩薩像」を安置し現在に至っています。この像は白石上郭から秋山十二天への山道脇にあった観音堂から遷したと伝えられています。
現代から次代の宗清寺へ
先代玄裕和尚は、本堂東側に宗教宗派自由な霊園墓地「花園むさしの浄苑」を開設しました。
さらに本堂の改築、山門・鐘楼・客殿・庫裏の新築、駐車場整備に尽力し、寄付に頼らず伽藍の整備を終えました。
現住職の代になり、檀信徒を問わず広く臨済禅の宗風に親しめる「開かれた寺」をめざしていきます。