樹木葬・永代供養・臨済宗の仏事は宗清寺

応安板碑

美里町指定文化財 応安板碑

宗清寺には、およそ640年前に刻まれた板碑があります。
板碑とは、戦乱の続いた平安末期から南北朝時代に、豪族や御家人ら武士たちが極楽往生を願って生前に建立したと言われる石造の卒塔婆です。美しい図像や梵字によって如来や菩薩を刻みました。
当山の板碑は高さ2.2m、幅50㎝の緑泥片岩の平石に、高さ約80㎝の阿弥陀如来(推定)と脇侍仏(如来像の下に向き合う)の三尊が図像として刻まれ、さらにその両脇に漢字で光明真言が刻まれています。
極めて珍しいデザインの板碑とされるもので、碑の中央下部には、応安6年(1373年)7月の年号と願主宗演(又は空浄・諸説あり)の名があることから「応安板碑(おうあんいたび)」と呼ばれます。

『集古十種』「上野国桐生碑」と「応安板碑」

『集古十種』は、徳川幕府第11代将軍家斉公の時代に老中として寛政の改革を行った松平定信が、老中退座後に編纂し、寛政12(1800)年に出版された古美術図録として知られています。
日本各地に散在する美術的価値の高い品々1895点を、碑銘・鐘銘・兵器・銅器・楽器・文房・印章・扁額・肖像・書画の10種に分け、一点ごとに谷文晁(江戸南画の大成者)らによる模写図を添え、所在地・寸法・特徴を記した木版印刷の図録で、全85巻から成っています。
この『集古十種』の中に「上野国桐生碑(こうずけのくに・きりゅうひ)」として記載されているものが、宗清寺の「応安板碑」であることが、昭和40(1965)年頃、桐生の郷土史家・小林一好氏によって発見されました。その結果、『集古十種』掲載の模写図、特徴が一致することなどから、編纂時に所在地を誤って記載したものと認定されました。
下記の写本は高さ4尺4寸余とありますが、当山の応安板碑は7尺以上です。古より当山にある「応安板碑」が、著名な歴史的文献に正しく記録されていないことは大変残念に思われます。

『集古十種』上野国桐生碑『集古十種』上野国桐生碑の部分詳細応安板碑の拓本

現在の応安板碑

「応安板碑」は本堂東側の竹林に建っていましたが、現在は本堂と竹林の間にある鞘堂に安置しています。経年変化が進み、碑面に刻まれた内容は判別が難しい状態です。

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